Author: | 芥川龍之介 | ISBN: | 1230000193407 |
Publisher: | Arao Kazufumi | Publication: | October 29, 2013 |
Imprint: | Language: | Japanese |
Author: | 芥川龍之介 |
ISBN: | 1230000193407 |
Publisher: | Arao Kazufumi |
Publication: | October 29, 2013 |
Imprint: | |
Language: | Japanese |
芥川龍之介傑作選1 著作者別ランキングで上位の作品から選定を行っています。今回は第3版として、芋粥、桃太郎、蜜柑、秋、谷崎潤一郎氏、侏儒の言葉、或旧友に送る手記などの作品を掲載いたしました。
●標記1
「shift jis」対応外の文字は原則「image font」を避けUnicode対応フオントとしております。
●標記2
この作品は青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)によってすでに作成されHP等にて既に一般公開されています。内容に関しましては、原著作者の著作上の意図及び著作を出版された出版社。さらに青空文庫等による制作上の意図と原則を尊重し、変換作業等の上は、最小限の改定に留まるように最新の注意を払っております
……………………………………………………
★ 芋粥
|元慶(ぐわんぎやう)の末か、|仁和(にんな)の始にあつた話であらう。どちらにしても時代はさして、この話に大事な役を、勤めてゐない。読者は唯、平安朝と云ふ、遠い昔が背景になつてゐると云ふ事を、知つてさへゐてくれれば、よいのである。――その頃、|摂政(せつしやう)藤原|基経(もとつね)に仕へてゐる|侍(さむらひ)の中に、|某(なにがし)と云ふ五位があつた。
これも、某と書かずに、何の誰と、ちやんと姓名を明にしたいのであるが、|生憎(あいにく)旧記には、それが伝はつてゐない。恐らくは、実際、伝はる資格がない程、平凡な男だつたのであらう。
★ 桃太郎
むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい|桃(もも)の木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は|大地(だいち)の底の|黄泉(よみ)の国にさえ及んでいた。何でも天地|開闢(かいびゃく)の|頃(ころ)おい、|伊弉諾(いざなぎ)の|尊(みこと)は|黄最津平阪(よもつひらさか)に|八(やっ)つの|雷(いかずち)を|却(しりぞ)けるため、桃の|実(み)を|礫(つぶて)に打ったという、――その|神代(かみよ)の桃の実はこの木の枝になっていたのである。
★ 蜜柑
|或(ある)曇った冬の日暮である。|私(わたくし)は|横須賀(よこすか)発上り二等客車の|隅(すみ)に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待っていた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はいなかった。外を|覗(のぞ)くと、うす暗いプラットフォオムにも、今日は珍しく見送りの人影さえ跡を絶って、|唯(ただ)、|檻(おり)に入れられた小犬が一匹、時々悲しそうに、|吠(ほ)え立てていた。
★ 谷崎潤一郎氏
僕は或初夏の午後、谷崎氏と神田をひやかしに出かけた。谷崎氏はその日も黒背広に赤い襟飾りを結んでゐた。僕はこの壮大なる襟飾りに、象徴せられたるロマンティシズムを感じた。尤もこれは僕ばかりではない。往来の人も男女を問はず、僕と同じ印象を受けたのであらう。すれ違ふ度に谷崎氏の顔をじろじろ見ないものは一人もなかつた。しかし谷崎氏は何と云つてもさう云ふ事実を認めなかつた。「ありや君を見るんだよ。そんな道行きなんぞ着てゐるから。」
★ 秋
一
信子は女子大学にゐた時から、|才媛(さいゑん)の名声を|担(にな)つてゐた。彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、|殆(ほとんど)誰も疑はなかつた。中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと|吹聴(ふいちやう)して歩くものもあつた。が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、|後家(ごけ)を立て通して来た母の手前も、さうは|我儘(わがまま)を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
★ 猿蟹合戦
|蟹(かに)の握り飯を奪った|猿(さる)はとうとう蟹に|仇(かたき)を取られた。蟹は|臼(うす)、|蜂(はち)、卵と共に、|怨敵(おんてき)の猿を殺したのである。――その話はいまさらしないでも|好(よ)い。ただ猿を仕止めた|後(のち)、蟹を始め同志のものはどう云う運命に|逢着(ほうちゃく)したか、それを話すことは必要である。なぜと云えばお|伽噺(とぎばなし)は全然このことは話していない。 いや、話していないどころか、あたかも蟹は穴の中に、臼は台所の|土間(どま)の隅に、蜂は|軒先(のきさき)の蜂の巣に、卵は|籾殻(もみがら)の箱の中に、太平無事な生涯でも送ったかのように|装(よそお)っている。
★ 「|侏儒(しゅじゅ)の言葉」の序
「侏儒の言葉」は|必(かならず)しもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々|窺(うかが)わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの|蔓草(つるくさ)、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。
● 星 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。
天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群と|雖(いえど)も、永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生を|孕(はら)んでいる。
● 道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。
● 道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全なる良心 の|麻痺(まひ)である。
●|妄(みだり)に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは|臆病(おくびょう)ものか怠けものである。
● 我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は|殆(ほとん)ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。
● 強者は道徳を|蹂躙(じゅうりん)するであろう。弱者は又道徳に|愛撫(あいぶ)されるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。
● 道徳は常に古着である。
● 良心は我我の|口髭(くちひげ)のように年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。
★ 或旧友へ送る手記
誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。|尤(もつと)も僕の自殺する動機は特に君に伝へずとも|善(い)い。レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない。君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。
芥川龍之介傑作選1 著作者別ランキングで上位の作品から選定を行っています。今回は第3版として、芋粥、桃太郎、蜜柑、秋、谷崎潤一郎氏、侏儒の言葉、或旧友に送る手記などの作品を掲載いたしました。
●標記1
「shift jis」対応外の文字は原則「image font」を避けUnicode対応フオントとしております。
●標記2
この作品は青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)によってすでに作成されHP等にて既に一般公開されています。内容に関しましては、原著作者の著作上の意図及び著作を出版された出版社。さらに青空文庫等による制作上の意図と原則を尊重し、変換作業等の上は、最小限の改定に留まるように最新の注意を払っております
……………………………………………………
★ 芋粥
|元慶(ぐわんぎやう)の末か、|仁和(にんな)の始にあつた話であらう。どちらにしても時代はさして、この話に大事な役を、勤めてゐない。読者は唯、平安朝と云ふ、遠い昔が背景になつてゐると云ふ事を、知つてさへゐてくれれば、よいのである。――その頃、|摂政(せつしやう)藤原|基経(もとつね)に仕へてゐる|侍(さむらひ)の中に、|某(なにがし)と云ふ五位があつた。
これも、某と書かずに、何の誰と、ちやんと姓名を明にしたいのであるが、|生憎(あいにく)旧記には、それが伝はつてゐない。恐らくは、実際、伝はる資格がない程、平凡な男だつたのであらう。
★ 桃太郎
むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい|桃(もも)の木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は|大地(だいち)の底の|黄泉(よみ)の国にさえ及んでいた。何でも天地|開闢(かいびゃく)の|頃(ころ)おい、|伊弉諾(いざなぎ)の|尊(みこと)は|黄最津平阪(よもつひらさか)に|八(やっ)つの|雷(いかずち)を|却(しりぞ)けるため、桃の|実(み)を|礫(つぶて)に打ったという、――その|神代(かみよ)の桃の実はこの木の枝になっていたのである。
★ 蜜柑
|或(ある)曇った冬の日暮である。|私(わたくし)は|横須賀(よこすか)発上り二等客車の|隅(すみ)に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待っていた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はいなかった。外を|覗(のぞ)くと、うす暗いプラットフォオムにも、今日は珍しく見送りの人影さえ跡を絶って、|唯(ただ)、|檻(おり)に入れられた小犬が一匹、時々悲しそうに、|吠(ほ)え立てていた。
★ 谷崎潤一郎氏
僕は或初夏の午後、谷崎氏と神田をひやかしに出かけた。谷崎氏はその日も黒背広に赤い襟飾りを結んでゐた。僕はこの壮大なる襟飾りに、象徴せられたるロマンティシズムを感じた。尤もこれは僕ばかりではない。往来の人も男女を問はず、僕と同じ印象を受けたのであらう。すれ違ふ度に谷崎氏の顔をじろじろ見ないものは一人もなかつた。しかし谷崎氏は何と云つてもさう云ふ事実を認めなかつた。「ありや君を見るんだよ。そんな道行きなんぞ着てゐるから。」
★ 秋
一
信子は女子大学にゐた時から、|才媛(さいゑん)の名声を|担(にな)つてゐた。彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、|殆(ほとんど)誰も疑はなかつた。中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと|吹聴(ふいちやう)して歩くものもあつた。が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、|後家(ごけ)を立て通して来た母の手前も、さうは|我儘(わがまま)を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
★ 猿蟹合戦
|蟹(かに)の握り飯を奪った|猿(さる)はとうとう蟹に|仇(かたき)を取られた。蟹は|臼(うす)、|蜂(はち)、卵と共に、|怨敵(おんてき)の猿を殺したのである。――その話はいまさらしないでも|好(よ)い。ただ猿を仕止めた|後(のち)、蟹を始め同志のものはどう云う運命に|逢着(ほうちゃく)したか、それを話すことは必要である。なぜと云えばお|伽噺(とぎばなし)は全然このことは話していない。 いや、話していないどころか、あたかも蟹は穴の中に、臼は台所の|土間(どま)の隅に、蜂は|軒先(のきさき)の蜂の巣に、卵は|籾殻(もみがら)の箱の中に、太平無事な生涯でも送ったかのように|装(よそお)っている。
★ 「|侏儒(しゅじゅ)の言葉」の序
「侏儒の言葉」は|必(かならず)しもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々|窺(うかが)わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの|蔓草(つるくさ)、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。
● 星 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。
天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群と|雖(いえど)も、永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生を|孕(はら)んでいる。
● 道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。
● 道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全なる良心 の|麻痺(まひ)である。
●|妄(みだり)に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは|臆病(おくびょう)ものか怠けものである。
● 我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は|殆(ほとん)ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。
● 強者は道徳を|蹂躙(じゅうりん)するであろう。弱者は又道徳に|愛撫(あいぶ)されるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。
● 道徳は常に古着である。
● 良心は我我の|口髭(くちひげ)のように年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。
★ 或旧友へ送る手記
誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。|尤(もつと)も僕の自殺する動機は特に君に伝へずとも|善(い)い。レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない。君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。